伊東四朗 てんぷくトリオ 19年目の解散宣言

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伊東四朗 てんぷくトリオ 19年目の解散宣言

またてんぷくトリオの話になるんだけど。
『お笑いンステージ』が1972年に始まって活躍の場が開けて、さぁっていう時に翌年1973年、戸塚睦夫ちゃんが病気で亡くなっちゃった。
42歳よ、早すぎるわよね。

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二人になったからトリオじゃないわよね。
で、伸介ちゃんと四朗ちゃんで『てんぷく集団』って名乗ったわけ。
これには伸介ちゃんの別な構想があったの。
伸介ちゃんはね、てんぷくトリオを中心とした劇団を作ろうと言う大きな夢を持っていたのね。
今は三人だけど、「集団」にしておこうって。
いつでも、誰が抜けても、誰が入ってもいいようにね。

四朗ちゃんも前に出るタイプじゃないし、睦夫ちゃんと言えば、人のいい引っ込み思案タイプだし。
リーダーはやっぱり伸介ちゃんだったわね。
リーダーはね、いい時は誉めれることもあるけど、悪い時こそ泥をかぶるって言う、こっちの確率のほうが多いわけで。
それができたわね、伸介ちゃんは。

それと安易な方法も取らないタイプだったわ。
昔、日劇で「北原謙二ショー」に出た時にコロンビアに気に入られて、専属になれって言われた時があったけど、伸介ちゃんは断ったの。
確かに北原謙二と一緒に営業回りしていれば、知名度も上がるし、収入も上がったでしょうね。
でもね、目先の問題じゃないって。
ずーっと実力をつけて内にエネルギーを溜めて、一気に爆発させたかったんでしょうね。
それが「びっくりしたなぁ、もう」って流行語が世に出た時よね。

男前で親分肌、伸介ちゃんはそういう人だって。
だから劇団と言う大きな構想を描いていたんだと思う。

四朗ちゃんがNHKの『天と地と』に出演することになった時、トリオとしての活動に影響が出るわけよ。
で、そん時に臨時でてんぷくトリオの一員になったのが、大映映画の二枚目俳優、川崎敬三さんなのよ。
その時だけの芸名も「川崎競輪」だって。

関西の寄席に行ったときなんか、向こうの芸人が陰口叩いたら、伸介ちゃん、立ち上がって「言いたいことがあったら面と向かって言え」って怒鳴りつけたんだって。
よほどプライドと責任を負っていたんでしょうね。

四朗ちゃんにとっては、いろんなものの「傘」になってくれたわね。
喜劇の劇団を作ろうって夢を描いていた伸介ちゃん。
あんなに早くあの世に行っちゃうなんて。
1982年、伸介ちゃんまだ52歳よ。
葬式では四朗ちゃん大号泣していたわね。

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短期間のうちに睦夫ちゃんと伸介ちゃんがいなくなって四朗ちゃん一人になっちゃった。
あっという間にね。

でもね、てんぷくトリオはそん時に解散していなかったの。
伸介ちゃんの葬儀の時の弔辞でも、
「これが、てんぷくトリオ最後の公演です」って言って、解散は口にしなかったのね。

それが、2001年のあるテレビ番組で、笑福亭鶴瓶ちゃんが、解散のことについて聞いた時に、四朗ちゃんが言ったの。
「正式には解散していないんですよ。いきなり戸塚睦夫が死んじゃって、今度は三波伸介も死んじゃった。ひとりでてんぷくってわけにもいかないしね。今言ってもいいんですよ、解散って。今言います、解散」

この時初めて『てんぷくトリオ』は解散になったの。
でも四朗ちゃん、心の中でつぶやいていると思うわ。

「一緒に日本一の喜劇一座を作りたかったですね、三波伸介さん」

ってね。

特集:伊東四朗劇場

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