土と炎と越前の風が作り出す素朴な焼締の器 越前焼

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土と炎と越前の風が作り出す素朴な焼締の器 越前焼

この器に盛り付けたい。
そう思えるやきものがございます。
この越前焼、思わず料理を食材を盛り付けたくなります。
無釉の高温で焼締めた器は、地味ながらも存在感があり魅力的です。
茶褐色の肌に流れ落ちる自然釉の豪快さ。
しかしながら控えめで深い味わいのある表情が、盛り付けた食材を引き立てます。

【越前焼の歴史】

中世六古窯のひとつ、越前焼もすり鉢や甕などの日用雑器を焼いておりました。
始まりは平安時代末期と言われています。
場所はいまの福井県宮崎村にあたります。
元々須恵器を焼いていましたが、常滑の技術を導入して焼き締め陶を作り始めました。
山の斜面をトンネル状に掘り全長13メートルほどの大きさの「穴窯」と呼ばれる窯で、壺や瓶、
すり鉢など約1トンの量の器をを1300度の高温で一度に焼き上げるという方式をとっておりました。
初期の生産品は成形・焼成ともに常滑焼との区別が難しいものでした。
恐らくこのころの越前焼の生産は、常滑からやって来た陶工達が行っていたためと思われます。
室町時代後期になると、甕やすり鉢などいっぺんに約5トンを焼き上げることができる全長25メートル以上もの巨大な窯を、
越前町平等に集めて大規模生産拠点を築き上げました。
作品も玉縁状の口、撫で肩、肩の部分の刻文などの越前焼の独特の作風がみられるようになりました。
海運の発達とともに越前海岸から船に乗せて北海道南部から島根県までの日本海沿岸に運ばれ、
大きな甕や壺は水密性の良さを生かし、水や穀物の貯蔵、藍染め、銭瓶などとして重宝されました。
こうして越前焼は最盛期を迎えましたが、
江戸時代にはいると次第に瀬戸焼などに押されて衰退し、明治、大正の時代には廃業が相次ぎ、一時越前焼は途絶えてしまいました。
様々な試行錯誤の末、再び注目されるようになったのは戦後のこと。
「越前陶芸村」構想のもと、福井県陶芸館を開館、その後多くの陶芸家が全国より集まりました。
やはり良いものは認められ歴史は繰り返すのでしょう。
現在は、焼締陶の伝統を生かし、さらに新しい作陶が試みられ、再び脚光を浴びるやきのも産地となっています。

【越前焼の特徴】

越前焼は六古窯のひとつである常滑焼の影響を受けてスタートしたため、初期の作品は常滑風として知られています。
その後鉄分を多く含む土を使うため耐火度が高く、肌色は黒灰色から赤褐色まで変化し、
黄緑色の自然釉が流れ落ちる美しさを持つ器が作られるようになり、次第に越前の特徴を出し始めました。
焼成する窯の中で、壺が徐々に傾き自然釉が表面を斜めに流れます。
焼きあがる直前に転倒して逆さまになったりすると逆方向に釉が伝います。
また、無釉で焼き締める炻器特有の黒ずんだ焦げ肌は、人の意志で作られるものではないために、何とも言えない景色を演出するところが見どころです。
0010.越前焼2

伝統的な無釉焼締陶から現代風の施釉の器まで、おおらかで力強い古陶の味を受け継いでいます。
素朴で無骨な酒器でいただく酒は、遥か平安の時代からの越前焼の栄華を思い起こさせることでしょう。

参考文献
『やきものの事典』/成美道出版
『やきもの全国有名窯場』/南大路豊/株式会社西東社
『やきものの基礎知識』/前山博志/株式会社学習研究社
『やきものの旅「東日本」』/安藤典子/日本写真印刷株式会社
『やきものの旅「西日本」』//日本写真印刷株式会社
『中島誠之助のやきもの鑑定』/中島誠之助/株式会社双葉社

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