マイセン窯との運命的な出会い 西洋が憧れた日本の白磁 有田焼

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マイセン窯との運命的な出会い
西洋が憧れた日本の白磁
有田焼

有田焼って有名なやきものですよね。
テレビの「なんでも鑑定団」なんかでもよく耳にしたりして、柿右衛門氏による高級磁器というイメージがあります。
でも「有田焼の知識」として正しい理解はなかなかしていません。
ここでちょっと「有田焼」をお勉強しておきましょう。

有田焼は今から400年ほど前に、日本で初めて磁器を作った佐賀県の有田町周辺で焼かれた磁器の総称です。
陶器の歴史から考えるとかなり新しい技術です。
染付や色絵など、やきもの界に大革命を起こしました。

16世紀末、戦乱の武将たちの間で茶の湯が流行り、高麗茶碗が珍重されました。
豊臣秀吉は高麗茶碗を生産していた朝鮮半島に非常に関心を持っていたようです。
秀吉の朝鮮出兵の際に、佐賀藩主の鍋島直茂によって連れてこられた朝鮮陶工の李参平が、有田泉山に磁石(磁器の材料となる鉱物)を発見し、日本で初めて白くてかたいやきもの、白磁を誕生させました。

もう一つ「伊万里焼」という言葉がございます。
これが知識の混乱のもとですが、有田の磁器は17~18世紀のころ、国内はもとよりヨーロッパなど海外にも多く出荷されておりました。
有田には海がないので一番近い港の伊万里港から出荷されていたため、消費地では「伊万里焼」と呼ばれていたのでした。
明治に入り、やきものは生産地の名前で呼ばれることが一般的になり有田の磁器は「有田焼」となったのです。
江戸時代に焼かれた「伊万里」は「古伊万里」と呼ばれるようになりました。

どうですか? 少しすっきりできましたか?

では「有田焼」のデザインはどうでしょう。
いくつかあるのでもう少しすっきりしましょう。

初期の有田焼は白い素地に藍色一色の文様が多くありました。
これらが「初期伊万里」と呼ばれる磁器のシンプルなデザインイメージになっています。
これを染付といいます。

その後、初代酒井田柿右衛門が赤を基調とした「赤絵(色絵磁器)」を世に出します。
柿右衛門は色づいた柿の実を見て赤絵付けの技法を考案したといわれています。
今でも柿右衛門窯に庭先には柿の木の古木が根付いております。
白地を生かし日本的な「絵画」のように草花文様や動物文様が描かれています。
これが「柿右衛門様式」です。

0002.有田焼3

さらに色絵の磁器の上に金粉などであしらった金彩が施され絢爛豪華に作られた「金襴手」は、先の「染付」と併せて「古伊万里様式」といいます。
海外では東洋の宝石と呼ばれ、王侯貴族に愛されておりました。
それがヨーロッパの磁器デザインに多大な影響を与えたのは言うまでもありません。

0002.有田焼2

染付と赤・青・緑を基調とした「色鍋島」は、佐賀藩主が使う食器や幕府への献上品として格調ある作品です。
鍋島藩はこの技術が外囲部に漏れることを恐れ、有田から大川内山へ御用窯を移しました。
人里離れた大川内山は陶工の出入りを厳しく制限し、「秘窯の里」として続けられたのでございました。
藍色で精緻に描かれた「藍鍋島」、自然の青翠色の「鍋島青磁」と併せ「鍋島様式」と呼ばれています。

0002.有田焼4

「有田の三右衛門」という言葉があります。
これは、前述した日本初の赤絵付けを開発した酒井田柿右衛門。
今も色鍋島を守り続ける今泉今右衛門。
華麗な古伊万里様式を継承する源右衛門。
この三つの窯元が「有田の三右衛門」です。

さぁ、だいぶ詳しくなりましたね。
このことを知るだけでもやきものを見る目が変わってきます。
実際に有田に行けばもっと目が養われますよ。

参考文献
『やきものの事典』/成美道出版
『やきもの全国有名窯場』/南大路豊/株式会社西東社
『やきものの基礎知識』/前山博志/株式会社学習研究社
『やきものの旅「東日本」』/安藤典子/日本写真印刷株式会社
『やきものの旅「西日本」』//日本写真印刷株式会社
『中島誠之助のやきもの鑑定』/中島誠之助/株式会社双葉社

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