伊東四朗 てんぷくトリオ時代

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伊東四朗 てんぷくトリオ時代

四朗ちゃん、やっと役者として芽が出始めて、演技も板についてきた頃、石井均一座が解散しちゃったのよ。
なんでも、関西の松竹家庭劇の曾我廼家十吾さんに呼ばれて、めぼしい座員を連れて行っちゃった。
でも、残された四朗ちゃんたちは、ほんとびっくりどころか納得行かないわよね。
そんなんで解散となった訳。

四朗ちゃん、一座の時から食えないもんで、キャバレー回りの仕事も掛け持ちしていたのね。
夜、劇場の仕事がはねてからキャバレーとかに行ってコント演るの。
始めは石井均さんと戸塚睦夫ちゃんがやっていたらしいんだけど、石井さん、金回りが良くなったんでやめちゃった。
で、困ったのが戸塚睦夫ちゃん。
近所のフランス座に出ていた三波伸介ちゃんを誘って二人でやり始めたってわけ。
当時、キャバレーは全盛期で、新宿当りだけでもたーくさんあったからね。
そのうちに睦夫ちゃんと伸介ちゃんのスケジュールが合わなくなってきてさ。
困った睦夫ちゃん、四朗ちゃんに声を掛けてきたのね。
「お前、ちょっと代わりにやってくれないか」って。

伊東四朗30

最初は断っていたけど、四朗ちゃんの性格でしょ?何となく引き受けたって。
でも、四朗ちゃん、”三波伸介”の名前で出たの。あくまでも「代役」だから。
そしたらね、ある時三波伸介ちゃんがいなくなっちゃったの。突然に。
家族の人もどこに行ったか知らないって。いわゆる「失踪」よね。
しょうがないから、四朗ちゃん、毎日”三波伸介”になってたわよ。

そうこうしているうちに、休憩していたら、伸介ちゃんがテレビに出てんのよ。
大阪の舞台中継で、いつの間にか玉川良一ちゃんと東けんじちゃんと一緒に「おとぼけガイズ」ってトリオ組んで。
まぁ、結局そのトリオは解散して東京に戻ってきたんだけど。
そんで今度は伸介ちゃん、睦夫ちゃん、四朗ちゃんの三人でキャバレー回りが始まったわけ。

そんな経緯だから名前もいい加減で「三波戸塚伊藤トリオ」にしてたんだけど、司会の人も覚えにくくて、紹介もできなかった。
まぁ、「ぐうたらトリオ」になったんだけど、いい加減なもんよね。

さて、そんな中にもチャンスが訪れましたとさ。
昭和37年にフジテレビから声が掛かって、昭和の爆笑王・林家三平さんの番組に出るようになったんだけど、その三平さんに「日劇でショーをやるけど出てみない?」って言われたの。
四朗ちゃん25歳の時ね。
あんた、そのころの日劇と言えば、国内外の一流歌手、演歌、ジャズ、シャンソンとジャンルを問わず大スターが看板を掲げていた劇場よ。
フランキー堺さん、ジョージ川口さん、絶頂期のクレージーキャッツとかね。
建物もお洒落でこれぞ銀座って感じ。

伊東四朗82

今はマリオンとか言って風情もなくなっちゃったけど。
最初は名前なんか出なかったんだけど、だんだん認められてきてね。
出演者に名前が出ることになったはいいんだけど、ちとクレームがついたのよ。
「ぐうたらトリオ」なんて名前は丸の内には掲げられないって。
結局、日劇に出ていた先輩の由利徹さんの「脱線トリオ」の次だから「てんぷくトリオ」だ。
ってことに落ち着いたんだって。
まぁ、いい加減よね。

時は演芸ブーム。
その中でもトリオブームがあって上手くのっかった感じがあったわね。
舞台やテレビにちょくちょく出るようになって人気が出てきたりして。でもここでモノを言ったのが軽演劇出身だってこと。
やっぱり四朗ちゃんの根底には舞台演劇の血が流れていたのね。

もちろん三人でやっていたとはいえ、みんなが対等ではないわ。
伸介ちゃんの力が一番大きかった。
力って言っても強引と言うことじゃないのよ。
トリオとして売り込むために前へ前へとグイグイ行くことや、コントのネタ作り、失敗した時の謝り役、等々、とにかく前に出て二人を引っ張っていったわね。
社長であり火元責任者ね。
唯一、今でいうところの「ギャグ」は伸介ちゃんの「びっくりしたなぁ、もう」だったし。
四朗ちゃんにとっては、伸介ちゃんは、風除けであり、処世術的役割であったわけ。

特集:伊東四朗劇場

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