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ハッスルで頂点へ
プロデューサー ヴァン・マッコイ
Van McCoy
ヴァン・マッコイはワシントンで生まれ、10代のころからドゥー・ワップグループにボーカリストとして加わります。
いくつかのグループに所属したりポップシンガーとしてソロデビューしましたが、なかなか芽が出ませんでした。
以後プロデュースにシフトしていき、ソングライター、プロデューサー、アレンジャーとして幾多の作品を手がけ、脚光を浴びることになります。
列挙すればきりがないほど、多彩な顔触れに関わっていきました。
結局彼は自身が前に出るタイプではなく、後ろでかじ取りをするほうが向いていたのですね。
彼が発表した大ヒット曲「ハッスル」はなんと全米で1000万枚を記録、グラミー賞でも最優秀ポップ・インストゥルメンタル賞を受賞することになるのでした。
この一連の曲のスタジオミュージシャンが、「ザ・ソウル・シティ・シンフォニー」です。
このメンバーのうちの4人が中心となり、後の有名フュージョンバンド「スタッフ(Stuff)」が結成されます。
ヴァン・マッコイは、知人のDJから「ハッスル」というステップがブームになっていると聞きつけ、そのダンス用に作ったのがこの名曲「ハッスル」だと言われています。
このステップは男女ペアでジルバ風に踊るのが特徴でした。
日本国内のディスコでも「ハッスルコンテスト」が行われ、アフロにベルボトムパンツが巷で流行りました。
「ハッスル」
原題 The Hustle
この曲がヴァン・マッコイを頂点に導いたといっても過言ではないでしょう。
全世界でのレコード売上1000万枚、グラミー賞最優秀ポップスインストルメンタル賞に輝きました。 以後の世界中のディスコミュージック界に多大な影響を与えます。
嫌みのない軽快なリズムは誰もが懐かしいとともに今でも「ハッスル」を踊りたくなるでしょう。
「ディスコ・ベイビー」
原題 Disco Baby
彼の代表曲「ハッスル」を生んだ、1975年のアルバム名と同名のA面1曲目のタイトルナンバー。
当時のディスコでは「ハッスル」とともに盛んに流されていました。
「ディスコ・キッド」
原題 Disco Kid
全盛期のディスコ・ダンスのひとつ、「ハッスル」を踊るのによくかかっていた曲です。
ドラムの音がカッコよかったのを耳に記憶しています。
「アフリカン・シンフォニー」
原題 African Symphony
1974年の彼のアルバムに収録されていました。
雄大な気分になり、大地を感じさせる曲です。
後にソウル・ディスコとは違ったブラスバンド界で有名に。
1987年に智辯学園和歌山高校が甲子園に出場した際に、応援曲として採用したことで以来高校野球の定番となっています。
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