神様でも、仏様でもなく、稲尾和久
- 2016/4/8
- スポーツ
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神様でも、仏様でもなく、稲尾和久
2012年 7月1日 日本プロ野球で初の試みとなる
イベントが開催された事を、あなたはご存じでしょうか?
選手全員が同じ背番号を付けプレーする 1試合限定 のイベント。
会場は埼玉県所沢市 西武ドーム(現在は西武プリンスドーム)
全員の背番号は「24」
この日、埼玉西武ライオンズ初の永久欠番として、
「24」が制定されました。
稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム
アメリカ メジャーリーグでは、毎年4月15日
全球団の選手全員が42番をつけてプレーをする
(42番のユニフォームを着るか?は選手が選択できる)
ジャッキーロビンソン デー(2004年~)がありますが、
日本プロ野球史上では、初の試みとなりました。
試合は ライオンズ 3 – 3 ファイターズ
規定により、延長10回引き分けとはなったが、
選手達の気迫は普段の数倍とも感じれる内容で、
トリプルプレーが飛び出すなど、稲尾和久氏のメモリアルに
花を添える試合になったのは言うまでもありません。
パ・リーグに籍を置く、ライオンズという球団の歴史の中で、
最大の功労者と称されているのが、稲尾和久でしょう。
「 神様 仏様 稲尾様 」 というフレーズも有名ですが、
1956年 稲尾が入団した年から、日本シリーズ3連覇を達成し、
西鉄ライオンズは黄金期を迎えます。
当時のチームの象徴が稲尾でした。
ですが、1970年以降、稲尾が監督を務めた西鉄ライオンズは、
毎年最下位が指定席の弱小球団になり変わっていたのです。
監督としての手腕がなかった訳ではなく、
球界を揺るがした 「 黒い霧 事件 」 によって、
チームは主力選手の多くが、球界から永久追放になっています。
主力を失ったチームを監督という立場から、
孤軍奮闘したのも稲尾和久です。
常勝黄金期をエースとして支えたのも稲尾。
低迷するチームを監督いう立場で支えたのも稲尾。
良い時も悪い時も、チームを支えたのは、
全て、神様でもなく、仏様でもなく、稲尾様だった。
稲尾和久 戦績
1956年 西鉄ライオンズ入団
入団1年目から21勝、防御率1.06(リーグ1位)で新人王獲得。
巨人との日本シリーズでも全6試合に登板して3勝。チーム初の日本一に貢献。
1957年 20連勝を含む35勝
最優秀投手、最高勝率、最多勝などを獲得。
巨人とのシリーズでは2試合に先発し、いずれも完投で2勝。2年連続日本一に貢献。
1958年 『 神様 仏様 稲尾様 』
33勝で2年連続最多勝。
3年連続で巨人と日本シリーズで対戦し3連敗から4連勝の4勝を挙げる。
第5戦では自らサヨナラ本塁打を放ち、翌日の新聞には、「神様、仏様、稲尾様」の見出しが躍った
入団から僅か3年間で、これだけの成績を収めた選手は、
日本のプロ野球の歴史でも希少でしょう。
もちろん、当時と現在では、登板間隔が全く異なり、
ローテーションなどはなく、エースの連投は当たり前。
先発で投げた翌日に抑えで登板するなど、
現在では考えられないような登板間隔で稲尾は投げていました。
また、この年の稲尾は全ての試合にベンチ入りしたと言われています。
いつでも投げれるように・・・ というか、本当に投げてしまった訳ですね。
1961年 年間42勝 世界記録
登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合(うち完投が25試合)
リリーフで48試合に登板。
この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合に過ぎず、
逆に3連投4回を含め連投が26試合。
1969年 現役引退
現役生活は僅か14年。
通算成績 276勝 137敗
通算防御率 1.98
これだけのハイペースで登板を繰り返せば、
選手寿命が短命になる事も頷けますが、
注目するべきところは防御率
現役通算で、1試合平均2点以上を失点をしないピッチャーは、
今後も出てこないでしょうね。
この防御率に注目しても、稲尾が運で勝ち続けた投手ではなく、
自らの実力で勝利を重ねた事は歴然でしょう。
32歳という若さで現役引退をした稲尾は、
そのまま西鉄ライオンズの監督になります。
ただ、この引退は稲尾の意志ではありませんでした。
69年 「黒い霧 事件」 が発覚し、
西鉄ライオンズは多くの主力選手が球界を永久追放になります。
球団のイメージは地に落ち、一新を図る為に、
監督稲尾が誕生したと言われています。
球団の為に毎試合投げ、球団の為に現役引退。
時代が違うと言えばそうなのでしょうが、
現在のプロ野球選手達には、絶対に存在しないような選手ですね。
実際に、主力を失ったチームは、最下位が指定席になり、
監督を務めていた稲尾は、現役復帰を本気で考えたそうです。
永久欠番の打診
実は、稲尾は現役引退の際、24番を永久欠番にする打診を受け、
それを断っています。
32歳という若さと、チーム事情からの引退故、
現役復帰を見越しての事なのか?否かは、定かではありませんが、
監督なってからも暫くは24番を付けて采配を振るっていました。
球団が身売りされ、チーム名が太平洋クラブラインオンズになる際、
チームが西鉄ではなくなった 「ニシ(24)」からチームが離れた為、
心機一転で背番号を81に代える事になります。
特に24番への愛着があった訳でもなく、
「 その年に20勝挙げた投手に24番を譲る 」 という話もあったそうです。
古き良き女房のような人物
野球では、キャッチャーの事を女房役と称しますが、
投手であった稲尾は、チームにとっての良い女房のような存在だったのかもしれません。
古き良き時代の、献身的で我慢強く、時に体を張って守るべき物を守る。
現在のプロ野球では、仕組み、常識が異なるとは故、
今後、このような選手が出てくる事はまずありえないでしょう。
それだけ、稲尾が行った事は偉大な事であると思います。
また、それがパ・リーグの選手であった。という事も、
良き女房のようなイメージがするのは私だけでしょうか?
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