スポンサーリンク
茶人を引きつける暖かな白と柔らかな赤み 萩焼
幕末維新において日本史の重要な舞台となった萩。
吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文らを輩出しました。市内には松下村塾などが残され、萩城の城下町としての古い街並みが保存されています。
「一楽二萩三唐津」
白壁が美しい小京都萩は400年の歴史を持つやきものの町でございます。
ここで焼かれた茶碗は高麗茶碗の味わいがもっとも良く残されており、高く評価されています。
ざんぐりとした土味を生かし、柔らかい肌触りが魅力の萩焼。
茶人達に愛でられてきた器は、改めてどのようなモノなのでしょうか。
【萩焼の歴史】
多くの窯場がそうであるように、萩焼もまた文禄・慶長の役からでした。
秀吉の朝鮮出兵の命を受け、毛利輝元が帰国する際に陶工を二人連れ帰ってきました。
李勺光、李敬の兄弟です。
その後関ヶ原の戦に敗れた輝元は萩入府に伴って、李兄弟を萩に同行させました。
毛利藩の御用窯として1604年に開窯したのですが、一般に萩焼と言われていますが、実は萩焼には二つの流れがございます。
ひとつが「松本萩」
もうひとつが「深川萩」
どちららも藩の御用窯を務めましたが、ふたつには大きな違いがございました。
李敬が開いた松本萩は藩からの要請でもっぱら茶陶を焼いており、かたや李勺光が開いた深川萩は自分焼と言って、茶陶以外の日用雑器を焼くことを認められていたのでございます。
他の窯場同様、明治維新によって藩の保護を失った萩焼は衰退して行きました。
そんな中、救世主として現れたのが、十二代坂倉新兵衛と十代三輪休雪(のちの休和)です。
坂倉新兵衛は茶陶としての萩焼を復興させ、三輪休雪は高麗茶碗を極め、伝統の白萩釉から「休雪白」と言われる白萩釉を誕生させました。
今も萩で活躍する作家は多くおり、昨今では国外から作陶に来る外国人もいらっしゃいます。
城下町と言う保守的な町も異文化との融合をしていくのでしょう。
【萩焼の特徴】
茶陶として愛された萩焼は、陶肌が柔らかく、茶をたてるとほんのりとした肌色が変化します。
「萩の七化け」です。
これは糖度に吸水性があり、低温で焼成させるため、貫入を通して染み込み、陶肌の色合いが変化するのでございます。
陶土に含まれた鉄分によっても変化いたします。
このように無機質な陶器茶碗が、人の使い方によってその肌色が様々な変化をする「おもしろさ」に対し、茶人達は好んでいたのでありましょう。
陶土は大道土という鉄分の少ない粘土が使われ、ざんぐりとした仕上がりになります。
釉薬の違いによって、白萩と紅萩の肌の違いに分かれます。
高台の種類は様々で特徴がございます。 特に切り込みに特徴も持ち、切り高台や割高台、三つ割高台、桜高台、十字高台などがあります。
切高台は一か所に切り込みを入れたもの、割高台は二か所に切り込み、桜高台は切り込みの形を桜の花びらを形どっています。
萩焼が茶陶としての地位が高いのは、高麗茶碗の趣を持ち、李勺光・李敬兄弟が李朝の技法によって萩焼を作ったことに由来しますが、代々の毛利藩主や一族の武将も名高い茶人が多くいました。
これらの人達が納得する茶碗を作る高等な技術が礎になっていることは言うまでもありません。
城下町の風情を楽しみながらお気に入りの一品を選ぶのもまた一興。
日常使いの器に、「萩の七化け」を見ながら料理を頂くのもオツな毎日が送れるかも知れません。
参考文献
『やきものの事典』/成美道出版
『やきもの全国有名窯場』/南大路豊/株式会社西東社
『やきものの基礎知識』/前山博志/株式会社学習研究社
『やきものの旅「東日本」』/安藤典子/日本写真印刷株式会社
『やきものの旅「西日本」』//日本写真印刷株式会社
『中島誠之助のやきもの鑑定』/中島誠之助/株式会社双葉社
スポンサーリンク