伊東四朗 演芸ブームからの脱却

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伊東四朗 演芸ブームからの脱却

1965年昭和40年、四朗ちゃん28歳の時だったわ。
日本テレビの『九ちゃん!』ていう番組にてんぷくトリオでレギュラーで出たの。
この時のプロデューサーが井原高忠さん。
日本のバラエティ番組の開祖って言われる人ね。
『九ちゃん!』は当時の東京12チャンネルの『ダニー・ケイ・ショー』を再現しようとしたわけ。
メインは坂本九ちゃん。国民的アイドルね。
で、その番組の笑い担当がてんぷくトリオ。

伊東四朗11

でもすんなり出演が決まったわけではないの。
作家の小林信彦さんは、番組のカラーから言って「トリオ・ザ・パンチ」を推した訳。
番組がバタ臭いからね。
それに対しててんぷくトリオと来たら、持ちネタは「武芸アラカルト」「名月赤城山」「柳生武芸帳」。
第1回はてんぷくトリオが出演して、第2回はトリオ・ザ・パンチが出演。
で、井原さん、小林さんに「どう?」ってきいたらしい。
小林さんはトリオ・ザ・パンチの旬の笑いを評価して、「こちらで」、と推してきた。
何度かの押し問答の末、井原さんが「僕はてんぷくに決めました」と言って決めちゃった。
後で聞いた話だけど、てんぷくトリオの芝居の評判は聞いていたらしいのね。
本当に芝居ができるのか、面白いのか、井原さん、横浜のキャバレーに自分で調べに行ったんだって。
トリオブームが去っても、てんぷくトリオが脚光を浴びるのはこの後からだったのよね。

プロデューサーの井原さんはすべてに於いてバタ臭かったから、てんぷくトリオには番組で歌や踊りを要求したの。
三波伸介ちゃんは軽演劇が長いし、戸塚睦夫ちゃんはお父さんが剣劇の名門一座だったくらいだから、ちょっと重たかったわけ。
当時四朗ちゃんはトリオの中でもあまり目立たず、第三の男的存在だったのね。
つまり「色がついていない」ってこと。
結局、楽器や歌、踊りの「担当」は四朗ちゃんで決まりになったのよ。
それからが猛レッスンの日々ね。歌は口パク禁止だし、横文字の歌まで覚えさせられるし。
踊りはステッキ持って踊るなんてやったことなかったし。

鉄は熱いうちに打てって言うけど、熱いうちにとことん鍛えてくれたって、四朗ちゃん言っていたわ。

特集:伊東四朗劇場

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