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ちあきなおみ 誰もが復活を願う歌姫
- 2016/4/19
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ちあきなおみ 誰もが復活を願う歌姫 音符の裏側を詠んで歌うことができる歌手
5歳の時に日劇で初舞台を踏んだのち、「白鳥みえ」の芸名を持ち、アメリカ軍のキャンプを廻るタップダンサーとしてステージに立ちました。
その後も「五城ミエ」の名で米軍キャンプやジャズ喫茶、キャバレーでロカビリーやポップスを歌い、10代の頃は芸名を替えながら前座歌手を務めてドサ回りで全国を回ったり、「南条美恵子」の名で盛り場の流しまで経験したのでした。
ちあきなおみ
デビューまでの道のり
下済み時代の長かった彼女がチャンスが訪れます。
1968年コロンビアのオーデションを受け、保留になりましたが、コロンビアレコードの坂田部長が、自社の目と鼻の先にあった作曲家鈴木淳の事務所に紹介します。
「この子はオーデションを受けに来た子ですが、すぐにデビューと言うわけにはいかないので、先生、少し鍛えてくれませんか?」
これが坂田の依頼でした。
名前は「瀬川三恵子」。赤ん坊のころから髪を切っていないと言う、伸ばしたらお尻より下に届かんばかりの長い黒髪が印象的でした。
鈴木淳の「何か歌ってみて」と言う問いに、
「はい、北島三郎さんの”兄弟仁義”を歌います」と言う答え。
歌ってみるとコブシがくるくる回る、ある種不思議な雰囲気を持った歌い方です。
当時、長く続いてきた演歌の時代が終焉し、鈴木淳が作っていたような、伊東ゆかり、小川知子や、黛ジュン、奥村チヨなど、いわゆる『ポップス歌謡曲』の全盛時代でございました。
坂田の依頼の内容と言うのが「この子のコブシを取り去って、ポップ系の歌が歌えるようにしてもらえませんか?」と言うことだったのです。
鈴木淳は一瞬「うーん」とうなりましたが、坂田の「1年でも2年でもお預けします」との言葉に、思わず「わかりました」と返事をしたのでした。
坂田の眼力は間違っておらず、そもそも彼女は小さいころからジャズやポップスを米軍キャンプを廻って歌っており、その後のドサ回りの仕事で「演歌のコブシ」と言う癖が身に付いたことを見抜いていたんでしょうね。
さて、鈴木淳の猛レッスンが始まります。
力強い発声とバイブレーションと言う「天性」を壊さないように、かつあえてハスキーなストレートボイスを教え込みました。
アメリカのジャズシンガーや、日本の歌手で言えば西田佐知子の『アカシヤの雨が止むとき』『女の意地』など、聴かせて、歌わせて、週2回のレッスンを約1年半勤め上げ、鈴木淳が「よし!」と太鼓判を押すまでになりました。
鈴木淳からの連絡を受けた坂田は、彼女の歌を確かめることもなく、「早速デビューさせましょう」と言う返事です。
全てを一任された鈴木淳が『ちあきなおみ』を世に送り出した曲がこれです。
雨に濡れた慕情
1969年、21歳の時に瀬川三恵子から、デビューするにあたっての芸名が、オール平仮名の『ちあきなおみ』になりました。
キャッチフレーズは「苗字がなくて名前がふたつ」「魅惑のハスキーボイン」。
まぁ、「魅惑のハスキーボイン」はさておき、そもそもこの芸名「ちあきなおみ」はどのようにしてつけられたんでしょうか?
そこにはこんなストーリーがありました。
芸名「ちあきなおみ」物語
人気歌手への仲間入り
『雨に濡れた慕情』は大爆発とまではいきませんでしたが、世に「ちあきなおみ」の名を知らしめるのには十分でした。
約20万枚の売上。今なら大ヒットですね。
その後わずか5ヶ月後にはセカンドシングル『朝がくるまえに』を発表しました。
前作を上回ることはできませんでしたが、4作目の曲『四つのお願い』がヒット。人気歌手の仲間入りを果たしたのです。
続けて『X+Y=LOVE』も出し、その年の「第21回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たしました。
その時に歌った曲はこちらです。
四つのお願い
ちあきなおみは元々人前に出ることがあまり得意ではありませんでした。
『雨に濡れた慕情』は本人は気に入った曲であったようです。
が、周囲の期待ほど売れなかったために、『四つのお願い』『X+Y=LOVE』で、若い女性のいわゆるセクシーアイドル路線にハンドルを切られ、『元祖ドッキリカメラ』や『コント55号の裏番組をぶっとばせ』にも身体を張って出演します。
本人にとっては不本意な変更であったことは自ら語らずとも明白でございました。
路線の変更によって念願の紅白歌合戦に出場できたとは言え、本人の望むことと周囲の期待のギャップが顕著に表れたことでした。
『コント55号の裏番組をぶっとばせ』の番組中の野球拳で幾度となく下着姿になったことなど、今思うと大変なことだったのでございましょう。
このギャップが後々彼女の考えに大きく影響いたします。
頂点への逆転ドラマ
紅白歌合戦初出場の2年後の1972年、彼女の代表曲『喝采』が発表され、第14回日本レコード大賞を受賞しました。
今でも誰もが知るこの曲は年末から翌年にかけて80万枚を売り上げる大ヒットになりました。
喝采
当時生まれていない世代の人に聞いても知っている、ちあきなおみと言えば『喝采』といいほどのこの楽曲は、彼女のノンフィクション的作品として、繋がっていきます。
ノンフィクション「的」としたのは、彼女の実体験をもとにした歌詞と言う触れ込みでプロモーションされましたが、実際は親しい役者が急死した体験をダブらせたと言う説がございます。
それでも聴き手には情景が浮かぶほど、力強い表現力ではありました。
この路線は『喝采』から『劇場』『夜間飛行』へと続きます。
夜間飛行
『演歌』ではなく『叙情歌』を
ポップス系のヒットを十分に打ち出し、ちあきなおみは演歌に意欲を見せ始めます。
実はここからがちあきなおみの本領発揮となるのでした。
どうせ演歌を歌うのなら、多くの名曲を輩出している船村徹の『船村演歌』を歌いたい。
彼女の素直な気持ちでした。
その後、船村徹はちあきなおみのよき理解者で、かつ一番コンタクトを取れる存在になりました。
1975年に『さだめ川』、1976年には『酒場川』と船村作品を歌いました。
そして因縁の『矢切の渡し』があります。
『矢切の渡し』と言えば誰もが細川たかしを思い浮かべるでしょう。
細川たかしが前年の『北酒場』に続いて2年連続で日本レコード大賞を受賞した曲です。
当然と言えば当然の意見なのですが、この『矢切の渡し』には知られざるエピソードがございました。
矢切の渡し
この二人の『矢切の渡し』は聴き手に取っては全く違う曲に聞こえることでしょう。
情景を映し出す力の差。
それを評して、船村徹曰く、冒頭の
音符の裏側を詠んで歌うことができる歌手
と称した訳でございます。
歌詞を自分で咀嚼消化し、自分で世界を作り、自分で脚色し、演歌と言うよりも『演劇』、叙情歌が歌える稀有な歌手でした。
さらなる表現の世界へ
そして、デビュー曲『雨に濡れた慕情』の作詞をした吉田旺とのコンビで船村徹が曲を書いた『紅とんぼ』を1988年に出します。
これこそがちあきなおみの本来の姿。
自身が歌いたい曲を自分で咀嚼して表現する。かつて不本意ながらお色気アイドルを演じなければならなかった頃に、思いを秘めた信念だったのでございましょう。
紅とんぼ
ちあきなおみは女優としても活躍しました。
映画、テレビ、そして舞台やバラエティ番組にも多数出演しました。
テレビドラマでは癖のある女性を演じ、バラエティ番組ではコミカルと言う意外な一面も覗かせたのでした。
「ちあきなおみは元々人前に出ることがあまり得意ではありませんでした」
前述したこの性格は、デビュー前の鈴木淳のレッスンの時からのものです。
おとなしく、控えめで、ペースを崩さない「瀬川三恵子」は、人前に出る苦手さの裏返しで、それを隠すかのように、女優を演じ、思いもよらぬ一面で人の目をさらっていったのです。
この延長が、有名なCMにつながります。
タンスにゴン
ちあきなおみは歌手でもなく、女優でもない、としたら
表現者
と言ったほうが的確かも知れません。
ちあきなおみが作る世界
その両方を見事に演じ、単なる一人芝居ではなく、見る者を引きずり込む力を持った作品が
ねぁあんた
です。
この「表現」は彼女以外にできる者はいないでしょう。
彼女が今までに蓄積した「芸」を多角的に「表現」したパフォーマンス。
その根底にあるのは、自分らしく歌い、自分らしく表現する、「歌」を物語として「演じる」ことができるちあきなおみだからなのでございましょう。
更に幅広く、奥深く
ちあきなおみは、歌謡曲、ポップスにとどまらず、ジャズ、シャンソンなどにも広げていきます。
ジャンルの壁を超えた数々の歌は、ちあきなおみの変幻自在の姿を見せ、人々に新鮮さを与えました。
彼女の、歌を物語として演じる表現力は、多彩なジャンルでも発揮します。
アメリカ民謡『朝日のあたる家』の日本語バージョン『朝日楼』は、流れ流れてたどり着いた孤独な女が、身も心もボロボロになり自虐的な話しをする姿を、圧倒的なパワーでのしかかる。
声ひとつ、歌い方ひとつが、この曲だけの歌い方を感じさせる世界は、ちあきななおみにしか持ち合わせないのでありましょう。
朝日楼(朝日のあたる家)
様々な歌の世界を旅した彼女は、一人の歌手と出会います。
アマリア・ロドリゲス
彼女の歌うファドみ魅せられて、新たな世界に挑戦しました。
霧笛
日本のスタンダードナンバー
ちあきなおみは様々な他人の曲をカバーしています。
それがカバー曲ではなく、彼女のオリジナルとして聴こえるのが不思議なのですが。
その代表曲がこちらでしょう。
黄昏のビギン
曲そのものの良さもさることながら、ちあきなおみの「表現力」という魔術によって、聴き手を引きつけられたと言うことは、テレビのCMでこの曲が流された時に、実に新鮮に聴こえ、「いい曲だがいったい誰が歌っているのだろう?」という問い合わせが殺到したことからも証明されます。
この曲『すたんだーど・なんばー』と言うアルバムに収録された、文字通り『日本のスタンダードナンバー』たる名曲になりました。
これだけの作品を残し、ある日を境に長い『休業』に入ったままのちあきなおみ。
最愛の人が残した言葉
「もう無理して歌わなくていいんだよ」
を胸に、今も彼女のみのステージで歌い続けていることでございましょう。
わたくし達が若き頃より、そして晩年を迎える歳に渡り、様々な情景を魅せていただけた『表現者』に感謝申し上げます。
特集:ちあきなおみをもう一度
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