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伝統が息づく「用」と「美」の磁器の里 砥部焼
砥部焼の食器は誰もが一度は目にしたことがあるでしょう。
唐津風の鉄絵陶器から始まった砥部焼ですが、江戸中期に磁器に転換しました。
温かみのある白い器肌に呉須が映えるような染付や、明治に入ってからは錦手も作られました。
愛媛県は松山市から車で20分の砥部町は、陶板の散策路や作陶体験ができる創作館などがある陶芸の町です。
夏の時期、国道沿いにはカンナの花が見事に咲き誇ります。
【砥部焼の歴史】
砥部の町は盆地であり、山裾の傾斜が登窯の立地に適しており、焼成時の燃料となる木材が豊富で調達しやすい環境にあったため、古くよりやきものが焼かれておりました。
遡ること、奈良・平安の時代須恵器のの窯跡も発見されております。
現在の磁器以前には陶器が焼かれていましたが詳しいことはわかっていません。
磁器への転換を思いついたのは、思いがけない砥石問屋の和泉屋治兵衛と言う人でした。
元々この砥部の地は古くから砥石の産地として有名で、「伊予戸砥」と呼ばれ、中央にも知られておりました。
江戸時代に砥部は大州藩に属しており、伊予都砥の生産が盛んでした。
この砥石の切り出しをする際に砥石屑が大量に出るため、この処理は大変な重労働でございます。
動員を余儀なくされた村人達は大きな負担に困っておりました。
そのころ伊予砥の販売を引き受けていた大阪の砥石問屋・和泉屋治兵衛が、天草の砥石が磁器の原料になることを知り、大州藩に申し出、伊予の砥石屑を原料にして寺kを生産することを進言したのです。
藩の財政好転の期待とも方向性が合致し、名を受けた杉野丈助が磁器の制作に着手したのでした。
試行錯誤すること3年。
ようやく成功にこぎつけたのは1777年のことでした。
その後、磁器製造に適した良質の磁石が発見され、白生地が焼けるようになりました。
また、幕末には有田から錦手の技術が導入され、華やかな色絵が焼かれるようになったのでした。
その後販路を海外に広げましたが、戦後の冷え込みにより、民芸食器の道を取り、国内向けに転換したことで復古したのでした。
【砥部焼の特徴】
少し濁りのある白地に染付の磁器。
文様は絵画的なモノではなく、意匠化された唐草は草花で、シンプルでモダンなデザインが多くあります。
砥部焼が多くの人に受け入れられたのは、磁器であっても器が厚手で堅牢なところでございましょう。
同じく日用雑器として日常使いを考えて、玉縁にして扱いやすくしたことや、白磁に呉須を使ったデザインが比較的どんな料理にも合わせられ和洋中のジャンルをとらないことなどがあげられましょう。
描かれる絵柄は窯元に代々伝わるものを守りながら、新しいデザインを取り入れる柔軟性もあり、単純化された絵柄の特徴が生かされています。
このようなデザインが、和風の食器のみならず、スープ椀やワインボトル、バター入れなどモダンな洋風食器にも広がりを見せております。
山に囲まれたのどかな盆地の町では今日もたくさんの器が食卓に並ぶために轆轤の上で誕生しています。
江戸時代、砥石屑の処理に悩まされていた人々には想像もできなかったことでしょう。
参考文献
『やきものの事典』/成美道出版
『やきもの全国有名窯場』/南大路豊/株式会社西東社
『やきものの基礎知識』/前山博志/株式会社学習研究社
『やきものの旅「東日本」』/安藤典子/日本写真印刷株式会社
『やきものの旅「西日本」』//日本写真印刷株式会社
『中島誠之助のやきもの鑑定』/中島誠之助/株式会社双葉社
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