伊東四朗 その生い立ち
- 2016/5/19
- 伊東四朗劇場
スポンサーリンク
伊東四朗 その生い立ち
四朗ちゃんはね、東京の下谷、今の台東区台東で生まれたの。
1937年、昭和12年だから、あたしよりちょっと上よね。6月15日が誕生日、よく覚えているでしょ。
本名「伊藤 輝男」。
五人兄弟の四番目。男、女、男、男、女の三男坊で、お父さんは洋服の仕立て職人を営んでいたの。
要するに浅草生まれ。だから下町言葉をしゃべって、今でも「ひ」と「し」の区別がつかないのよ。
以前、タクシーに乗って行き先を「日比谷」と言ったら、「渋谷」に連れていかれたって。
まぁ、この下町言葉が後々四朗ちゃんの強力な武器になるんだけど。
四朗ちゃんのお父さんは厳しかったらしいわね。
昔気質で頑固一徹。気が向かないと働かないんで、生活は大変だったらしいわ。
今どきの父親は優しすぎるって言ってたわ。
四朗ちゃんのお父さんは、何しろ口よりも手が先に出る。
例えばお箸の持ち方ひとつでも、お膳の対面から手を伸ばしてバシーンってぶたれたらしいわよ。
でもそのお父さん、三味線をつま弾いて小唄を歌うような「粋人」。
歌舞伎好きで、仕事が終わるとよく見し言ったらしいの。
おかげで戦時中、四朗ちゃんも連れて行ってもらったって。
コレ、「伊東四朗」の礎になっているとあたしは思うわ。
新派や軽演劇をいっぱい見て育ったのね。
それと一番上のお兄ちゃんは喜劇役者志望だったから、その影響も大きわね。
自分で劇団を立ち上げて、脚本も書いていたんですって。
何しろ四朗ちゃんの初舞台は、そのお兄ちゃんの劇団での劇よ。小学校四年生のころかしら。
それと映画が好きだったわね。
下のお兄ちゃんが映画好きの影響かしら。
戦時中は静岡県の掛川と言うところに疎開していたのね。
で、街中に映画館が四つあったらしいけど、しょっちゅう連れて行ってもらってたって言ってたわ。
お母さんとお姉ちゃんは音楽が好きだったみたい。
お姉ちゃんはコーラス部に入っていたくらい。
お母さんは鼻歌が得意で、いつも歌っていたわ。
四朗ちゃんもいつも鼻歌を歌っているのはお母さん譲りなのね。
四朗ちゃんの頬っぺたに傷があるでしょ?
あれはね、小さい頃に出来た傷なの。
ある時工場跡地にあったトロッコで遊んでいたのね。
そしたらそのトロッコが転倒して、車輪の一部が四朗ちゃんの左の頬っぺたを貫通したの。
もう少し上に刺さっていたら、失明していたでしょうね。
う~・・・。
想像しただけでも怖いわね。
その傷跡が、その後も尾を引いちゃうのよね。
東京都立市谷商業高校という高校を出て、就職を希望したのね。
で、いろんな会社を受けたんだって。
四朗ちゃん、実はサラリーマンになりたかったのね。あまり知られていないけど。
本人の言葉を借りると「保守的で、出世欲も冒険心もない男ですから」朝、きちっと決まった時間に出かけて、仕事が終わったらまっすぐに家に帰る、そういう規則正しい生活が好きなのね。
サラリーマンに憧れていたわけよ。
でも受ける会社受ける会社、全部不合格。
成績は良かったらしいから、最終面接までは行くわけよ。
その面接で落っこちちゃう。
本人曰く、目つきが悪い上に、頬に傷があって人相が悪い、面接向きじゃないんだよって。
あたしはそんなことないと思うけどね。
そんで、お兄さんの伝手で、早稲田大学の生協で牛乳やパンを売るアルバイトを始めたのね。
そのうち日曜日にも東京大学の食堂で、チャーハンやラーメンを作るアルバイト。
年中無休、働きづめね。
でも、どんなに忙しくても、大好きな舞台には通っていたのね。
そこから喜劇役者「伊東四朗」が始まるとは思いもよらなかったけど。
特集:伊東四朗劇場
スポンサーリンク