伊東四朗 舞台に立つ
- 2016/5/19
- 伊東四朗劇場
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伊東四朗 舞台に立つ
四朗ちゃん、働き通しの毎日でも、やっぱり舞台は好きだったのね。
良く見に行ったって言ってたわ。
四朗ちゃんのバイト仲間に、「船本ちゃん」って言う人がいたのね。
船本ちゃんは、早稲田大学に初めて「落研」を作ったって人なんだけど。
仲良くなって話をしていたら、船本ちゃんは歌舞伎が好きだってことがわかって、「俺も好きなんだ」ってわけで見に行こうってことで、一緒に出掛けるようになったのね。
で、四朗ちゃんが「軽演劇もいいぜ」って言うと「そんじゃぁ、それも見に行こう」って。
二人して新宿のフランス座にも行くようになったのよ。
新宿フランス座っていうのは、ストリップと軽演劇の二本立てだったからね。
バイトが終わって、十円玉を手の甲にポンってやって、表が出たら歌舞伎、裏が出たらフランス座。
でも毎日毎日お金がいくらあっても足りないわよね。
そんで二人は考えたわけよ、歌舞伎をタダで見れる方法を。ほんとはいけないんだけど、もう時効ね、本人も話してるくらいだから。
いくつか方法があって、ひとつははとバスの団体客になりすまして一緒に入っちゃうってヤツ。
はとバスの歌舞伎観劇は、一幕ものを見るのね。
バスからみんなが降りてきてきたら、その中に何となく紛れ込んじゃう。
でも、最初に歌舞伎座の前で記念写真撮るのよ、欲しいお客さんが持ち帰れるように。
そん時に映っていないとまずいから、四朗ちゃんも一緒に写真に撮られるのね。
きっとその写真は全国のはとバスツアーに来たお客さんちにあるんだろうって、四朗ちゃん言ってたわ。笑っちゃうわよね。
もうひとつの方法は、関係者の振りをして入るってヤツね。
例えば大道具の入口から入って、舞台から奈落に降りて、花道の下を通って裏から客席に出るんですって。
もう関係者の振りじゃなくて、関係者そのものよね。普通こんなこと知らないもの。
この時のコツは、腰に手ぬぐいを下げること。
「私は大道具の仕事やってます」って感じ。
これ自体、役者よね。
あと、新橋演舞場はこれまた別の方法だったのよ。
こっちはね、売店の店員になるわけよ。
開場前にトラックが商品を届けに来るでしょ?
それを待ち構えていて、「どうもー、ごくろうさま!」って挨拶するの。
完全に売店の人よね。
そして「こちらで中まで持っていきます」って言って、伝票と一緒に売店までもっていくのね。
そんで、ここからはトラックの運転手になりきるのよ。
「品物届けに来ましたぁ」って。
サインしてもらった伝票を運転手に渡すと、また中に入っていくんだけど、守衛さんもさっきの人だと思って何にも言わずには入れるんですって。
一人二役。見事な役者だわ。
新宿コマ劇場とかも同じような「手口」で「お邪魔」していたみたい。
でも新宿フランス座はこれができなかった。
なんでかって言うと、毎日のように通っていたから、関係者に顔を覚えられて「有名な客」になっちゃった。
なぜかフランス座には学割があったで、出演者も「あいつまた来てる」って言うくらいだったって。
でもわかんないものよね。
ココからなのよ、四朗ちゃんの喜劇役者が始まったのは。
新宿フランス座で軽演劇やっていた石井均さんが、ある時四朗ちゃんに声を掛けたわけ。
楽屋の窓から顔を出して、「おい、ちょっとよってきな」ってね。
それからよ、石井均さんの楽屋に入りびたりになったのは。
本人はそのころが楽しかったって言ってたわ。
そうこうしているうちに、石井均さんは独立して「笑う仲間」っていう劇団を作ったの。
で、旗揚げ公演を錦糸町の駅前の江東楽天地にあるヘルスセンターでやるんだけど、石井均さんが四朗ちゃんに「お前も出るか?」って言ったんだって。
思わず「はい」って言っちゃった。
初めての役は公衆便所からジッパーを上げながら去っていくだけの通行人。
そのころ、バイトしていた早稲田大学の生協からも正社員にならないかって言われてたのね。
四朗ちゃん、生まれて初めて自分の人生の決断を迫られたわけよ。
で、役者の道を選んだんだけど、本人の話では「俺は生協で牛乳瓶の蓋をあけながら一生を終えるのか」って思うと、牛乳瓶開けるよりもジッパーを上げるほうを取ったんだって。
面白おかしく言ってたけど、本人相当悩んだんでしょうね、その時に。
21歳の時だったわね。
その石井均一座には三波伸介ちゃんや戸塚睦夫ちゃんがいたのね。
あと、財津一郎ちゃんもいて。
これがまた、将来の道につながっていくっていう、いわば運命だったと思うわ。
特集:伊東四朗劇場
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